グレーゾーンに生きる

普通に見えて、でもどこか違う、そんなグレーゾーンで生きている

「失礼」とは誰が決めているの?

※「ひとりごと」は考えたことを考えたままに書いているので、変な所がいっぱいだと思います。気にしない人だけどうぞ。

 

 

 

昔、こんなことがありました。

色々な学校との交流会で、私は自己紹介の紙で

「右耳が聴こえません。話しかける時は肩をたたくなどしてください。耳のことが気になったら聞いてください」

と書きました。

(かなり前のことなので記憶があいまいですが、大体こんな趣旨)

 

基本的にそう言っても聞いてくる人は稀なのですが、その時は話題を振ってきてくれた人がいたんです!

しかも、ちゃんと話しかける前に肩を軽く叩いてくれて!!

 

誰も、同じ部活の人でさえ耳のことを聞いてくれる人はほとんどいなかったので、テンション高めで話していました。

しかし、その人が急にハッとして申し訳なさそうに、

「すみません、こんな色々聞いちゃって。個人的なことを色々聞くのは失礼だ、って先輩に言われていたのに」

と言い出したのです!

 

私は何も言っていません。

むしろ、私が言うことだけを聞くだけの大半の人に比べ、「え、そんな不便が!」と積極的に聞いて理解しようとするその人の行動が、私は心の底から嬉しかったんです。

いつも自分一人で、出来ないことを実感し、それを「一度で理解してもらえるように」どう説明するか考えていたから。

「一緒に理解しようとしてくれる」人がいるんだって、もう、本当に嬉しかった。

 

だからこそ、その「聞く」という行為を「個人的なことを色々聞くのは失礼だ」という言葉で止めて欲しくない、と思うのです。

 

でも、私のように嬉しいと思う人がいる一方で、確かに色々聞かれることや配慮されることを不要と考える人もいます。

そんなのどっちでもいいと思う人も。

きっと、もっと色々な考えもあるでしょう。

 

では、「個人的なことを色々聞くのは失礼だ」とはなんだろう、って思うんです。

何を根拠に、「失礼」と決めているのでしょう?

人によって何を快・不快とするか違うのに、どうして何かが一律に「失礼」と決められているんでしょうか?

私には、それが昔から不思議でなりません。

 

前述の場面では、私は最初から「気になったら聞いて」という立場を表明していました。

それなのに!

「色々聞くのは失礼だ」という考えによって、相手が申し訳なさそうにしてしまったのです。

この奇妙な考えは、なんなんでしょう?

 

最近になって思うのは、この言葉は「相手が人間だ」ということを忘れているのではないか、ということ。

人間が失礼と思うことはあります。

けれど、それと同時に、同じ事柄でも喜ぶ人もいれば悲しむ人も、怒る人も何も感じない人もいる。

どんな感情を抱くかは、人によって違う。

それを、この言葉はどこかに忘れてしまって、その抜け殻だけが広まっているんじゃないか、と。

 

一律に「失礼」を考えるよりも、相手に対し「聞いても大丈夫ですか?」と、「相手がどう思うか」を憶測ではなくきちんと聞ける人や環境が増える方が、良いことは多いんじゃないかと、私は思うのです。

まぁ、「聞いても大丈夫ですか」という言い方が、となる人も、それが強制に聞こえる人もいるかもしれないので、考えは尽きないですが。

 

前述の場面では、申し訳なさそうに謝れた後、すぐに「そんなことない!」と否定しました。

私は聞かれたら嬉しく思うタイプだと、そうすぐに言えた自分を褒めたい。

その後は、最初と同じように色んなことを話せましたし、色んな発見もあって楽しい時間を過ごせました。

それは「失礼と言われていること」を気にせず、話しかけてくれたその人がいなければ生まれなかった時間です。

 

一律に失礼と考えず、相手はどう思うのだろう、という考えがもっと広まればいいのにと思います。

 

そして個人的に、あの言葉に言い返したいんです。

「私がそれを失礼に思うと、"勝手に決めつけられる"方がよっぽど失礼だ」、と。

 

そんなことを考えた、今日この頃です。

 

 

※私の体験を基にしているため、私は違うよ! こういう事もあるよ!という事があると思います。

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